現在、ビジネスメールをはじめとして、メールの作成にAIが必須ツールとなっていると感じますよね。
そこでふと、何とも言えない疑問にぶつかりました。「コレって…何のために存在しているんだろう?」という話です。
完璧なメール作成と、その後の行動
ある日、ビジネスメールを作成しているときの体験です。私は、用件や送信先の宛名など、必要な情報を箇条書きにして文章自体をAIに作成してもらいました。
「ビジネスメールとして適切な文章に整え、用件を丁寧な言い回しで失礼のないような文章にして」
これはもう見事な文章ができあがるんですね。さらにメールサービスのツールとして付属しているAIに送信前の最終調整をしてもらうので、その完成度の高さは感動ものなんです。
AIのおかげで今までよりマナーの整った文章ができるようになり、日常の業務がすごく助かっていたんです。
また、逆にビジネスメールで依頼や回答を受け取ることもあります。そのメールも、やはり素晴らしく丁寧に書かれていることが分かります。「これもきっとAIが作成しているんだろうな」と思いながら、次のアクションに移るわけです。
そしてすぐに、その丁寧すぎるメールの内容はAIによって簡潔に要約されるんですね。
さらに「この内容をもっと簡潔な用件だけにまとめて、箇条書きで必要な情報のみにして」とAIに依頼します。
すぐに要点だけが分かりやすく抽出され、すぐ返信に取り掛かれる。また返信内容もメールサービスのAIツールによってある程度まとめてくれていて、回答についてもアドバイスとして候補を挙げてくれていて、本当に便利で助かるな、と。
誰が書き、誰が読んでいるのか?
この一連のルーティンを繰り返すうちに、ある考えに気が付きました。
「あれ、私が送ったメールも、相手も同じようにAIに要点だけにしてもらってるんだろうな。効率的な時代になったもんだな」
…ん? んんっ?
私が箇条書きでまとめた用件をAIが完璧なメールとして作成、それを相手が受け取る。 そして相手も、その私が送信したメールをAIによって、また用件だけにまとめてもらっている。
だったら、この丁寧に装飾された膨大な文章は、一体誰が書いて、誰が読んでいるのでしょうか?
結局、丁寧な文章を書く作業も読む作業も、人間ではなくAIだけが完結させているのではないか、という結論に至ってしまったのです。
「慣習」と「効率」のジレンマ
もちろん、メールには信頼関係を築くという大切な役割があり、形式を整えることは日本のビジネスにおける大切な慣習です。しかし、お互いが「時短」のためにAIを使っているのなら、この丁寧すぎるメールの文章は、ただの過剰な装飾になっているとも考えられます。
これからAIがどんどん仕事のツールとして浸透していくと、今回のような「丁寧すぎる文章」のように、長年の慣習で必要とされるものをAIによって作成するという作業、効率を妨げるルーティンが増えてしまうのではないか。
AIによって瞬時に作成されるので、その手間については時短にもなったとも考えられますが、どうなんだろうなと。
本当に必要なのは、お互いの時間を尊重し、用件だけを簡潔に伝え合うという本質的な効率性のはず。
AIの進化によって、本当に必要とされているものと、形式として残っているものの境界線が曖昧になっている。
ホントにコレって、誰のため、なんのための丁寧なメールなんでしょうね。
いろいろと深く考えながら、AIの進化と同じように今後のメール文化もさらなる進化をしていくのかなと思ったのでした。
皆さんの中にも同じように感じている人が多いかもしれませんね。


